書評「戦後経済史」野口悠紀雄

戦後経済史
著者:野口悠紀雄
出版社: 日本経済新聞出版社 (2019/4/2)
※ 2015年6月に東洋経済新報社より刊行した『戦後経済史』の文庫化

◆ 読むキッカケ

2018年2月~3月にテレビで放映した 欲望の経済史 ~日本戦後編~  を1年半ぶりに見直した。当時より、私の金融知識も格段にパワーアップしているが、まだ知らないことがあったことに気づいたので、振り返ろうと思った次第。

◆ 目次

第一章 戦時体制が戦後に生き残る
第二章 なぜ高度経済成長ができたか?
第三章 企業一家が石油ショックに勝った
第四章 金ぴかの80年代
第五章 バブルも40年体制も崩壊した
第六章 世界は日本を置き去りにして進んだ
エピローグ
日本人の考え方はどう変わったかー文庫本あとがきにかえてー

◆ 概要

戦時期につくられた国家総動員体制が戦後の経済復興をもたらし高度成長を実現したとする独自の「1940年体制」の視点に加えて、野口先生の個人体験を交えて戦後日本の変遷を描きだしている。空襲に遭って生き延びた言問橋の記憶に始まる国家に対する不信の原点から始まり、東大工学部から大蔵省に入省し,経済学者になっていく個人史と,当時の日本の様子が野口先生の目を通して描かれています。 それを野口先生はこの視点を、「犬の目」と呼んでいます。これは、「地上からの視点」であり、自分の目を通してみた戦後日本社会の経済の変遷史。もう一つは、「鳥の目」。これ「は空からの視点」で、社会と経済の俯瞰図を描いていると言っています。この二つの視点を使い分けながら描かれていることが本書の特徴ともいえるでしょう。

◆ 本文からの抜粋

戦前の日本では、株式や社債で企業が投資資金を調達する直接金融が中心であり、銀行借り入れで賄う間接金融の比重が低かったのです。革新官僚たちは、それを日本興業銀行を始めとする銀行が資金を供給する仕組みに変えていきました。一連の施策により、企業金融における銀行中心主義が確立され、株主の支配が排除されていきました。

P.23 プロローグ

戦時中日本軍は占領地で軍票を発行していましたが、過剰発行によって現地経済を混乱に陥れていました。同じことが日本で行われれば、日本通貨は通貨の発行権を奪われるだけでなく、日本経済そのものが打撃を受けることになりかねない。
米軍はすでに日本で使うための軍票印刷済みで、船積みも終えた状態でした。それが日本で使われるのを阻止するために、懸命の努力が行われたのです。占領経費を日本円で供与することを条件に、軍票支払いの停止を要請したとされますが、詳しい資料が残っておらず具体的にどのような交渉が行われたのかわかりません。

P.39  第一章 戦時体制が戦後に生き残る

このような結果となったのは、占領軍が日本の官僚組織の実態を理解していなかったためです。戦時経済の実態を操っていたのは大蔵省や軍需省(商工省)などの経済官僚だったのですが、占領軍がそうした構造を理解していませんでした。彼らがいかに日本の官庁の実態に無知であったかは、ほとんど実権のなかった文部省を戦時教育を強制した戦争責任者と考え、廃止を検討したと言う事からも見て取れます。

P.41  第一章 戦時体制が戦後に生き残る

金融資産に対する財産税の影響も甚大でした。農地改革、借地法・借家法の改正、インフレ、財産税。これらにより、日本の地主階級と富裕層は没落しました。ヨーロッパでは、第二次大戦後も広大な土地を所有する貴族階級や、不労所得で経済を支配する資本家層が温存されました。しかし、日本では、戦前の支配階級が戦中と戦後の10数年で一掃され、「1億総中流」と言われるような社会構造の基本が作られたのです。これは不労所得を認めないと宣言した、戦時中の革新官僚が行った多くの改革がもたらした結果であったのです。

P.61  第一章 戦時体制が戦後に生き残る

日本国民は、こうした農家保護政策を受け入れました。それによって、戦後の日本では所得格差の拡大が抑えられ、社会的な不安を最小限に食い止めることができたのです。これは、40年体制が持つ社会主義的な側面が発揮された結果です。40年体制は、高度経済成長を支えただけでなく、農業社会が工業化する過程で不可避な所得格差問題の調整においても重要な役割を果たしたのです。

P.105  第二章 なぜ高度経済成長ができたか?

高度成長期には、郵貯で集めた資金に加え、公的年金の保険料積立金を用いて、大蔵省の資金運用部による政策的な投融資が行われていました。これが財政投融資計画です。財投は、道路や公的住宅などの社会資本整備(道路公団、住宅公団)、基幹産業への低利の融資(日本開発銀行、日本輸出入銀行)、零細企業など低生産性部門への補助など様々な分野に用いられました。(中略)政府はこの時代、金融機関に対し、一行も潰さず、新規参入も認めないという「護送船団方式」をとっていました。銀行の利益の源泉は、預金金利と貸出金利の利率の差です。貸出金利のほうが利率が高く設定されており、その差が銀行の儲けになります。護送船団方式では、この金利をどちらも政府が決めており、金利の差は、体質が弱い地域金融機関でも経営が成り立つ水準に定められていました。

P.129  第二章 なぜ高度経済成長ができたか?

財政投融資と言う仕組みは、一般にはあまりなじみのないものなのですが、高度成長期の日本で実に重要な役割を果たしました。まずドッジ・ライン以降、高度成長期の日本は、国債発行に頼らない均衡財政を目指しましたが、これは財政投融資との組み合わせがあってこそ実現できたものです。もし財投がなければ、社会資本整備のために一般会計の公共事業費が膨らみ、均衡財政を維持するのは困難だったでしょう。

P.133   第二章 なぜ高度経済成長ができたか?

欧米諸国の場合、企業と労働組合の間で締結される賃金協定の大国、インフラするインフレスライド条項があります。物価が上がった場合は、賃金もそれに応じて上がっていくと言う取り決めです。これは、本来は労働者の生活を守るための条項ですが、賃金が上がれば企業の生産コストも上がり、商品やサービスの値上げが必要になると言う問題を抱えています。つまりインフレ時には、インフレ、賃金上昇、生産コスト上昇、値上げ、インフレ更新と言う悪循環が生じて、コストプッシュインフレが加速されてしまうのです。ところが、日本では、第一次石油ショック直後の74年の物価上昇率は確かに高かったけれども、その後もインフレがどんどん加速してゆくと言う事態には陥りませんでした。それは労働組合が賃上げを自主的に抑制したためです。日本の労働組合が企業別に組織されています。賃金は個別の企業の業績に連動する面が多く、多くの企業に賃金のインフレスライド条項はありません。企業の業績が悪化している中で、労働組合がインフレを理由に賃上げを要請すると、生産コストが上がってその企業は競争上不利になり、経営危機に陥りかねない。会社が潰れてしまえば、従業員は職を失います。

P.194 第三章 企業一家が石油ショックに勝った

アメリカでは当時FRBが住宅価格の高騰に対処して金融引き締めを行ったのですが、金利が一向に上昇しないと言う事態が生じていました。当時のFRB議長のグリーンスパンは、それを謎だと言いました。アメリカには世界中から資金が流入してくるため、国内で金融引き締め行っても、効かないのです。アメリカの住宅価格バブルは、一刻だけの現象として行ったのではなく、世界的な資金循環のメカニズムが背後にあったわけです。

P.333 第六章 世界は日本を置き去りにして進んだ

◆ 全体を通しての感想や考察

プロローグを読んで、東京大空襲が野口先生の国家への不信の原点となっていたことは強烈だった。
”究極の危機が降りかかってきたのに、何の助けにもなってくれなかった。それどころか、危機であることすら伝えてすらくれなかった”
この言葉は、現代のわれわれも重く受け止めたほうがいい。
そして、この本は、後出しじゃんけん本として、「自分ならどう動いたか」を考える良書でもある。初回は、事実を知ることだけで精一杯になってしまったので、二回目、三回目でチャレンジしたい。

それにしても、占領軍が日本の官僚組織をあまり理解していなかったというのは衝撃的な事実だ。当時、米国では財閥解体を行っていたが、日本もそれが諸悪の根源だと、ある意味決め打ちして対応しているのだ。
もう一度、ジョン・ダワー「敗北を抱きしめた」も読み直したくなった。

「一億総中流」は低所得者が豊かになったという側面がフォーカスされがちだが、その裏には地主・富裕層を没落させたからであり、「不労所得を認めない」と宣言した官僚たちの考えがあったのは知らなかった。
この時、地主・富裕層はどうやって富を避難させたのだろうか?後出しじゃんけんとしての課題として調べてみたい。